まだちょっと早いかもですが、京都の春の祭典、さくらパレードが近づいてきました。これは開催されれば、まず京都橘は出演するし、屋外イベントで無料なのでチケットを予約する必要もなく、ドリルやパレードを割と近い距離で見ることができますので、京都橘をまだ生で見たことのない人が、初めて見てみるのにはちょうどいいんじゃないかと思います。最近は少し混雑するのが難点ではありますが。
上記の動画は私が初めて京都橘を生で見た時のさくらパレードの交歓コンサートで、私はこの右奥の方で見ていたのですが、思った以上に動きがダイナミックで音にも迫力があって圧倒されました。動画にも映っていますが、ジャンピングハイタッチにはびっくりしました。
さくらパレードでは交歓コンサートとパレードがあって、どちらも京都市内中心部で行われます。この辺りには名所・旧跡も多く、時期も桜が咲き始めるころのいい季節で、これを見たついでに京都観光をするのもいいのではと思います。ということで、この周辺のちょっとした紹介をします。
まず、交歓コンサートが行われる御池中学校ですが、ここはただの中学校ではありません。ここはもと上京第27番組小学校、のちの柳池校といって京都が全国に先駆けて日本で最初に作った小学校だったものです。裏手に回ると"日本最初小学校 柳池校"という石碑があります。日本最初の小学生がこの辺りで勉強していたと思うとちょっと感慨深いのではないでしょうか。
さて、さくらパレードのパレードはまずこの御池中学校をスタートして、御池通を東進します。この御池通はただの通りですが、平安京の時代、およそ1200年前からある通りでもあります。平安時代は三条坊門小路という狭い通りで、今のように片側四車線の広い通りになったのは、第二次世界大戦で周辺家屋が疎開させられ、戦後の整備でこの道を広くしたからのようです。
この御池通、なぜ御池通と呼ばれるようになったかというと、この通りが二条城付近にある神泉苑という庭園の池の前を通っていることで、江戸時代あたりからそう呼ばれるようになったそうです。この神泉苑は平安京ができた時から存在し様々な伝説がある禁苑で、だいぶ狭くなったようですが現在も存続しています。有名な伝説ではここで東寺の空海と西寺の守敏という僧が雨乞い勝負をして、空海がインドから竜神を呼んできて京都に雨を降らせて勝利し、そのこともあってか西寺はその後衰退して滅びたという話があります。以降雨乞い場所として有名になり、元祖しずちゃんの静御前もここで雨乞いをしていた時に近くで見ていた源義経に見初められてその側室になったという話もあります。また、ここは嵯峨天皇が初めて桜の花見をしたところでもあり、日本の花見の発祥地ともいわれますので、さくらパレードの後で花見がてら行ってみるのもいいんじゃないでしょうか。
さて、パレードは御池通りを進み寺町通との交差点で右折し寺町通を南下します。この寺町通も平安京ができたころからある通りですが、当時は東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)と言って平安京の東の端の通りでした。現在はこの通りは京都御所のすぐ東を通り京都の中心街に近いですが、これは京都御所や市街地の方が平安京の時代から東の方に移動してきたためです。この通りが寺町通と呼ばれるようになったのは、豊臣秀吉が京都の整備をしたときに、京都に散在する寺院を集めてこの通りの東側に移転させたことによるもので、そんなことからこの通り沿いはたくさんの寺院があります。
パレードに従って寺町通に入ると、すぐ左手に本能寺というお寺があります。これはかの本能寺の変で明智光秀が織田信長を襲ったところの本能寺ですが、この本能寺は秀吉が本能寺の変の後にここに移築させたものであり、当時はここから西南西約1kmほどのところにありました。境内に入ると本堂の裏手あたりに信長公のお墓があります。ここで、かの戦国のスーパースター織田信長をしのんで手を合わせるのもいいかもしれません。ただ、信長公のお墓はほかにもたくさんあり、京都市内だけでも大雲院、妙心寺玉鳳院など数か所ありますが、中でも最も立派なのは秀吉が作らせた大徳寺総見院のものではないでしょうか。ここには信長公の木像も安置してあり、通常は非公開ですがたまに特別公開していますので、時期が合えば一度行ってみるといいでしょう。あと、寺町通り沿い京都御所のやや北に阿弥陀寺というお寺がありますが、ここにも信長公のお墓があり、これはここの当時の住職が本能寺の変の直後に本能寺に行って信長公やその家来たちの遺灰を拾って持ち帰りそれを弔ったものだとされています。本当かどうかわかりませんが、そうだとするとここが本当の信長公のお墓なのかもしれません。ここはだれでもはいれるお寺で私も数年前に行ってみたのですが、写真を撮り忘れてしまいました。
ところでこの本能寺、実際には本䏻寺というちょっと変わった文字が使われています。これは本能寺が本能寺の変を含め、たびたび火災にあったため、ヒ(火)が去るようにとこういう文字を作ってあてはめたのだという説があり、本能寺のホームページにもそう書いてあります。話としては面白いですが、これはどうもデマらしく、実際は䏻の字が刻まれた屋根瓦が本能寺の変以前の本能寺跡から出土していて、当時はこっちの䏻の方が広く使われていて能の方こそ最近使われだした字だということのようです。
とかなんとか書いていたら、長くなってきたので次回に続くということで…