O-vils ライブレポート

ちょっと遅ればせながら先日行われたO-vils初ライブのレポートです。(出演者の敬称略にします)

このO-vilsの初公演で、一度は生で見たかったちっぴ、ルイ、こまれの114期パーカストリオ、またもう二度と生では見れないかと思っていたゆい,ミドリ,あやかの115期中核メンバーが出ると聞いて、チケット争奪戦に参加したら意外と簡単にチケットが取れたので、4月3日京都fanJまで出かけてきました。京都fanJは京都最大のライブハウスで地下鉄烏丸線の終点,国際会館前駅から歩いて10分ほどのところにあります。最大600人くらいのキャパですが、この日は感染予防のためか80名ほどの席まで絞っていました。

会場はこんな感じで、A,B,Cの三列を取り払って下部ステージにしていました。ちなみに私はE4の席でなかなか良い席です。客層としては半分くらいは中高年男性で、某動画の大御所なんかも来てたようです。残りの多くが割と若年層の男性で、わずかにメンバーの友人知人かと思われる若い女性、父兄かと思われる着物姿の女性なんかも来ていました。

会場の運営はまだ慣れてないのか、開場時間になっても入場ができず、入場がスタートしてもたびたびチケットもぎりが中断して大行列になっていたりして今一つでした。O-vilsグッズなんかも販売していたようでしたが、こちらも販売面積が狭くて売り子も少なく、かなり行列しないと買えなさそうだったので、購入をあきらめました。ただ、横山先生の指示か目立つところに喫煙所があったり、ドリンクではビールなどアルコール類も売られていたりして、もう高校生バンドではないと感じさせるところもありました。

さて、橘テンションで始まったステージですが、基本的には橘の定期演奏会のマーチングステージを取り出して濃縮した感じで、間に116期DMのSUZUKAのバトントワリングショーや、歴代DMのビデオコメントなんかもはさんだりして、飽きさせないような構成になっていました。ホラっちゃ先輩も動画で出てきて、子育てが終わったら参加したいなどと言っていたのは何やら時の流れを感じさせます。

曲としては、もうよく覚えてないですがWinter games, Fireball, You can't stop the beat, Sing Sing Singなど114-116期でよくやっていた曲を演奏していたと思います。またアンコールはSing Sing Singで相当に盛り上がっていたのを覚えています。ちっぴは1曲だけドラムをたたいていたのですが実に楽しそうで、全身を使ってリズムを表現していて見とれてしまいました。ゆいやミドリもステップを踏みながら軽やかにリズムに乗って演奏していたし、あやかも以前と同じく、もしかしたらそれ以上にしなやかにダンスをしていてとても楽しいライブでした。

ただ、全体の音としては、トランペットが一本のみで、トロンボーンは参加なしだったのでやや厚みに欠ける気がしました。男性メンバーでエレキギターとエレキベースが入っていましたが、O-vilsは生の楽器の音が魅力なので、エレキギターはいらないんじゃないかと感じましたし、エレキベースは、ゆるモわ!のスーザ一本じゃさすがに低音が足らないので必要かもしれませんが、あんなに大きな音でスーザの音をかき消してしまったんじゃ台無しだと感じました。(男性メンバーの人、見てたらゴメン単なる嫉妬ですdevil)

O-vilsの今後ですが、これくらいの大人数のバンドだと全員がプロとしてやっていくのは相当大変そうで、よほどうまくやらないと継続が難しそうに思えます。クラウドファンディングで当面の活動資金は確保したようですが、どういう形であれ、京都橘の伝統を引き継ぎ発展させていくバンドとして頑張ってほしいですね。ちなみに私は次の京都テルサでの公演のチケットを予約しました。みなさんもよかったらチケットを買ってO-vilsの公演を見に行ってほしいところ。一見の価値はあると思います。

O-vilsの続報についてはファンクラブのメンバーであるともちちさんが今後教えてくれるかも。

京都橘観光案内 伏見大手筋

京都橘の動画は数あれど、この前田慶次郎さんの伏見大手筋商店街パレードの動画が最も人気があるのではないかと思います。2021年6月時点で3,435万回の再生回数を誇ります。私もこの動画は大好きで定期的に見ています。ローズパレード直前で114-116期のほぼ全員参加の大人数であり、安定したパフォーマンスを楽しめる動画となっています。この中からO-vilsに参加しているメンバーも多いので、今後もO-vilsで生でこのようなパフォーマンスが見られる可能性があるというのも楽しみなところです。

さて、この伏見大手筋通りは京都橘の地元で、京都橘中・高はこのパレードのスタート地点の鳥居の奥方向1kmくらいの距離にあります。大手筋は東西に走る通りなので、東方向に約1kmということになります。動画を見ると伏見大手筋商店街はよくある地方のアーケード商店街のように見えますが、この大手筋通りはただの地方の大通りではありません。

そもそも伏見は平安京以前より秦氏など渡来系氏族により開発されてきたところですが、今から400年ほど前に、かの太閤豊臣秀吉がこの地に指月伏見城を築き城下町を作ったことにより一躍当時の日本の政治・文化の中心地となります。この指月城はこのパレードのスタート地点の鳥居の南東方向(右斜め奥)500mくらいの地点に築かれたと考えられていて、大手筋通りはこの指月伏見城の大手門につづく道として誕生しました。この道は当時の日本のメインストリートともいえる道で、秀吉や当時その配下であった徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元などもおそらく通ったであろう道です。前田利家や上杉景勝に仕えていた傾奇者の前田慶次郎ももしかしたらこの道を通ったかもしれません。

指月伏見城は地震により倒壊しますが、すぐに北東方向1kmくらいのところ(鳥居の左手奥約1km)に位置を変えて木幡山伏見城として再建されます。この城も秀吉が亡くなった後、関ヶ原の戦いのときに焼け落ちますが、今度は支配権を握った徳川家康により同地に再建され、家康はこの伏見城で征夷大将軍の宣下を受けることになります。のち秀忠、家光まで伏見城で将軍宣下式を行っていて、江戸時代初期まではここ伏見が日本の中心地であったと考えていいでしょう。

さてここからは大手筋通り周辺の風物をご紹介します。

まずはパレードのスタート地点の大鳥居は御香宮(ごこうのみや)神社の鳥居です。この神社の創建の由緒は不明ですが、平安時代に境内から香りのよい水が湧き出して、その水を飲むと病が癒えたというところから時の清和天皇から御香宮の名を賜ったといいます。この水は今も湧き出ていますので、訪ねる機会があったら飲んでみるのもいいかもしれません。

御香宮神社の御香水 Wikipediaより

この神社は幕末には薩摩藩の本営となり、鳥羽・伏見の戦いでは大手筋通りを挟んで南側にあった伏見奉行所にこもる会津藩や新撰組の陣地を砲撃して陥落させたそうです。

御香宮神社の前には黒田節発祥の地の立て札があります。このブログの読者ならおそらく知っているとは思いますが、黒田節は黒田長政の家来が大杯の酒を飲みほして福島正則から槍をもらったという故事に基づく唄で、それはこの御香宮神社あたりであったことのようです。

御香宮神社の黒田節の立て札 Wikipediaより

パレードに従って、近鉄、京阪の線路を越えた次の角あたりは徳川家康が日本で最初に銀座をつくった地となります。ここが元祖銀座ということで、東京のザギンでシースーよりは、ここ大手筋で清酒を一杯のほうが格式が高いかもしれません。

そこを超えると、普通の商店街が続きますが、この大手筋通りの周辺には造り酒屋が20軒以上あり一帯が酒蔵地帯となっています。パレードの進行方向で銀座の角から3つ目の通りを左に入ると、月桂冠や黄桜など大手酒造メーカーの本社や工場があり、アンテナショップや酒造に関する記念館や資料館もあるので日本酒好きには面白いところだと思います。その次の角の細い道を左にまがったあたりには伏水酒蔵小路といって小さな居酒屋が密集している地帯があり、そこに行けばたいていの種類の伏見の酒が飲めます。ただし、京都市には最初の乾杯は日本酒でしなければならないという冗談のような条例もあるので、飲みすぎには注意です。

アーケードが途切れたところ、パレードの折り返し点を左に曲がれば、納屋町商店街を抜けて竜馬通り商店街です。この商店街の突き当りを右に曲がれば、当時坂本龍馬が京都の常宿にしていた寺田屋があります。ここである夜に竜馬は伏見奉行所の捕り方に襲われますが危うく難を逃れました。坂本龍馬もここを拠点に日本の将来を憂いながら大手筋通りを歩いたのではないかと思われます。

現在の寺田屋 Wikipediaより

しかし、坂本龍馬も、豊臣秀吉も、徳川家康も、薩摩藩士や新撰組も、のちの世にオレンジの軍団がダンスと演奏をしながら大手筋をパレードするとは思いもよらなかったのではないでしょうか。

ということで、次の投稿はケセラさんよろしく。

 

定期的な記事投稿と投稿者募集について

皆様、ikeです。

このところ記事の投稿が滞って、コメントをつける期限がすぎてしまって、コメントできなくなってしまうということが起こっていますので、定期的に記事を投稿できるような仕組みを作ろうと思います。

まずは現在記事を投稿する意思があることが確認できた、ike、ケセラさん、ともちちさんで、この順でおよそ一週間間隔で記事を投稿していくということにします。ただし何か急用があるとか、ちょっとネタが見つからないとかの場合はパスして、一週間以内に次の順の人にバトンを渡すということも可能とします。まずは今週からこの制度をスタートしますのでみなさまよろしく。次はikeが何か記事を投稿します。

そして、三人だけだとネタが尽きてしまったりしまうことも考えられますので、この投稿者グループに新規に参加して投降する方も併せて募集します。資格は京都橘に関連する記事を定期的にこのブログに投稿する意思のあるかたです。投稿者グループは任意の時点で脱退することも可能で、脱退した人でも再参加することも可能です。お申し込みはこのブログのお問い合わせページからお願いします。その際、メールアドレスとニックネーム、簡単なプロファイルをお知らせください。折り返し投稿者アカウントと投稿者グループでの順番をお知らせします。皆様奮ってご応募ください。

京都橘の歴史など

しばらく投稿がないので、間つなぎにちょっと固めですが新規記事を投稿させていただこうかと。今回は京都橘高校のユニークな伝統はどこから来ているのか、その歴史を見てみることでなにかヒントが得られないか調べてみました。

京都橘高校の紹介ページによると、京都橘高校は中森孟夫(なかもりたけお)により「京都女子手芸学校」として1902年に京都市内に設立されたものがもとになっているようです。その学校は、女性が経済的に自立(自営独立)することの重要性を認識し、「女子のための実業教育(技芸教育)の学校」として創立されたものだそうです。あの女子を中心とした高い演奏技術を見ると、もともと女子に技芸教育をするための学校であったからとすると納得できる気がしますが、中森孟夫自身はほかに簿記学校などを設立したり、のちにハワイにわたって日本人学校で教員をしたりしている人物で、特に女性自立のための実業教育に情熱を持っていたという人ではなさそうなので、なぜ1900年初めに京都に女子のための実業教育学校を作ったのか疑問もあります。

全く推測ではありますが、これはさかのぼること30年ほど前、京都に全国に先駆けて盛んに設立されたという女紅場の影響を受けたものではないかと思われます。何やら怪しい字面ですが、女紅場(にょこうば)とは明治初年に、女子に対して読み書き算盤や裁縫・手芸を授けた教育機関のことです。これは「京都女子手芸学校」のコンセプトとほぼ同一のもののようにも見えます。ほとんどの女紅場はおそらくは資金難などにより10年から20年の間にすたれていきますが、この伝統と需要を引き継いで「京都女子手芸学校」が設立されたものではないかと思われます。

さて、この「京都女子手芸学校」は実際はどのような学校であったのか気になって調べてみたところ、興味深い資料が見つかりました。リンク先は明治41年(1908年)の中等教育諸学校職員録ですが、これを見ると当時生徒数232人で結構な規模の学校であったことがわかります。何学年あったのかは不明ですが、7期生あたりに最大232人いたことになります。教えられている教科を見ると、刺繍や裁縫ばかりでなく、国語や英語、歴史や地理も教えられていることがわかります。創立者の中森自身も漢文、算術、代数、造花などを教えています。残念ながら音楽は教えられていないものの、手芸学校というよりは手芸も教える女子校という印象を受けます。

どんな教員が教えていたのかも気になったので調べてみたところちょっと驚きました。同時代の同姓同名の人が京都にいたのではないとすると、

  • 名誉校長に、京都帝国大学工学部初代教授の 大塚要(おおつかかなめ)
  • 校長兼理事に、自らも武道者で武道者の総本山ともいえる大日本武徳会を創立した鳥海弘毅(とりのうみひろき)
  • 理事に、「日本外史」で名高い頼山陽の孫で漢学者の頼龍三(らいりゅうぞう)。
  • 教授兼教務に、のちに文学博士にして京都帝国大学教授、第12代京都帝国大学総長となる歴史学者 羽田亨(はねだとおる)。当時京都帝国大学大学院生。
  • 教授兼庶務に、のちに京都市立第一商業校長をへて長崎大学の教授となる歴史学者川島元次郎(かわしまもとじろう)。当時京都帝国大学学生。

などそうそうたるメンバーが教員陣にいたようです。幹部に有名人をそろえ教員陣に有望かつ有能なイケメン(かもしれない)若手研究者をあつめた、あこがれのセレブな学校であったのかもしれません。

こののち、「京都女子手芸学校」は1931年に政府より職業学校の許可を受け、第二次大戦後の1947年に新制高等学校の「京都手芸女子高等学校」となるのですが、1957年校名を「京都橘女子高等学校」に変更します。

これは、上記の地図の通り、当時「京都手芸女子高等学校」が京都御苑の西、すなわち右側に位置したことから、御所の紫宸殿前に植えられた「左近の桜、右近の橘」にちなんで「橘」の文字をつけるのがふさわしいとしたからのようです。西側なら地図で見ると京都御所の左側じゃないかと思う人もいるかもしれませんが、昔の中国の「天子は南面す」にならって京都では天皇が南を向いて政治を執るのが伝統とされるので、西の方は天皇から見て右側になるということのようです。ちなみにこの「橘」の発案は当時の校長の恩師で「広辞苑」の編者であった新村出氏によるものだそうです。なお、この場所には現在京都ブライトンホテルがあり、ホテルの北側に京都女子手芸学校跡を示す碑があるそうです。

上記は昨年末に上賀茂神社で撮ったたものですが、橘は日本固有の柑橘樹で昔から繁栄や長寿の象徴として尊ばれ、邪気をはらうとされたことも校名にふさわしいと考えられたのでしょう。橘のイベントはコロナの影響で次々と中止や無観客となっていますが、せめて過去のYoutube動画でも見て邪気を払いましょう。