しばらく投稿がないので、間つなぎにちょっと固めですが新規記事を投稿させていただこうかと。今回は京都橘高校のユニークな伝統はどこから来ているのか、その歴史を見てみることでなにかヒントが得られないか調べてみました。
京都橘高校の紹介ページによると、京都橘高校は中森孟夫(なかもりたけお)により「京都女子手芸学校」として1902年に京都市内に設立されたものがもとになっているようです。その学校は、女性が経済的に自立(自営独立)することの重要性を認識し、「女子のための実業教育(技芸教育)の学校」として創立されたものだそうです。あの女子を中心とした高い演奏技術を見ると、もともと女子に技芸教育をするための学校であったからとすると納得できる気がしますが、中森孟夫自身はほかに簿記学校などを設立したり、のちにハワイにわたって日本人学校で教員をしたりしている人物で、特に女性自立のための実業教育に情熱を持っていたという人ではなさそうなので、なぜ1900年初めに京都に女子のための実業教育学校を作ったのか疑問もあります。
全く推測ではありますが、これはさかのぼること30年ほど前、京都に全国に先駆けて盛んに設立されたという女紅場の影響を受けたものではないかと思われます。何やら怪しい字面ですが、女紅場(にょこうば)とは明治初年に、女子に対して読み書き算盤や裁縫・手芸を授けた教育機関のことです。これは「京都女子手芸学校」のコンセプトとほぼ同一のもののようにも見えます。ほとんどの女紅場はおそらくは資金難などにより10年から20年の間にすたれていきますが、この伝統と需要を引き継いで「京都女子手芸学校」が設立されたものではないかと思われます。
さて、この「京都女子手芸学校」は実際はどのような学校であったのか気になって調べてみたところ、興味深い資料が見つかりました。リンク先は明治41年(1908年)の中等教育諸学校職員録ですが、これを見ると当時生徒数232人で結構な規模の学校であったことがわかります。何学年あったのかは不明ですが、7期生あたりに最大232人いたことになります。教えられている教科を見ると、刺繍や裁縫ばかりでなく、国語や英語、歴史や地理も教えられていることがわかります。創立者の中森自身も漢文、算術、代数、造花などを教えています。残念ながら音楽は教えられていないものの、手芸学校というよりは手芸も教える女子校という印象を受けます。
どんな教員が教えていたのかも気になったので調べてみたところちょっと驚きました。同時代の同姓同名の人が京都にいたのではないとすると、
などそうそうたるメンバーが教員陣にいたようです。幹部に有名人をそろえ教員陣に有望かつ有能なイケメン(かもしれない)若手研究者をあつめた、あこがれのセレブな学校であったのかもしれません。
こののち、「京都女子手芸学校」は1931年に政府より職業学校の許可を受け、第二次大戦後の1947年に新制高等学校の「京都手芸女子高等学校」となるのですが、1957年校名を「京都橘女子高等学校」に変更します。
これは、上記の地図の通り、当時「京都手芸女子高等学校」が京都御苑の西、すなわち右側に位置したことから、御所の紫宸殿前に植えられた「左近の桜、右近の橘」にちなんで「橘」の文字をつけるのがふさわしいとしたからのようです。西側なら地図で見ると京都御所の左側じゃないかと思う人もいるかもしれませんが、昔の中国の「天子は南面す」にならって京都では天皇が南を向いて政治を執るのが伝統とされるので、西の方は天皇から見て右側になるということのようです。ちなみにこの「橘」の発案は当時の校長の恩師で「広辞苑」の編者であった新村出氏によるものだそうです。なお、この場所には現在京都ブライトンホテルがあり、ホテルの北側に京都女子手芸学校跡を示す碑があるそうです。
上記は昨年末に上賀茂神社で撮ったたものですが、橘は日本固有の柑橘樹で昔から繁栄や長寿の象徴として尊ばれ、邪気をはらうとされたことも校名にふさわしいと考えられたのでしょう。橘のイベントはコロナの影響で次々と中止や無観客となっていますが、せめて過去のYoutube動画でも見て邪気を払いましょう。