継承

お疲れ様です。

AKD44withT、橘でいうところの84期生(当時は女子高だったので当然在籍はできなかった)ケセラでございます。

 さて、皆さんが橘ファンになったきっかけは様々だとは思います、そしてなぜ自分がこんなに橘が大好きになってしまったのか、以前ぢぢブロでも話題になったこともあったと思いますが、答えなんてわかりません。それにしても橘ファンてなんでこんなに年配者が多いのでしょうか、いや橘ファンと公言している人に年配者が多い、と表現した方が正しいのか。

 実は先日私の勤め先の後輩が何気ない会話の中で中学生の時に吹奏楽をやっていてトランペットを吹いていた、当時は結構ガチでやっていて高校進学の時に強豪校にいくのもありかな、と思ったが近所に無く、また進学した高校の吹奏楽部が人数も少なく弱小だったので入らなかった、とのことでした。そこで私が、京都橘って知ってる?と聞いたところ、知らないですと即答でした。やっぱりなと思いつつYoutubeに沢山動画が上がっているから見てみて、と言いその場は終わりました。

 そして後日、その後輩は動画見ました、凄いですね、マーチングだけでも大変なのにダンスを踊りながら演奏なんて私にはできません、と。さらにはトランペット経験者だけに113期マーコンでのレ〇ナのトランペットソロは音も綺麗で感動しました、と喰いついてきました。これは見込みあるなと思った私は大御所の動画や笑コラの動画を見るよう勧めたら、さらに喰いついてきてローズパレードの時のベネフィットコンサートも観ました、涙でてきました、ところでローズパレードのマルチタムの進行方向に向かって左側って何年生ですかね?(これはYoshimituさんが担当?)とか、カラーガードの人が可愛くって調べたら小麦さんて言うんですね(どうやらネットで検索したら某ブログにたどりついたらしい)とか。そしてこの避難所にたどり着かれたらどうしよう。それならそれで大歓迎、なんてったってその後輩は113期と同級生の22歳の女性ですから。ROM専は許しませんけどね(笑)

 

京都橘の歴史など

しばらく投稿がないので、間つなぎにちょっと固めですが新規記事を投稿させていただこうかと。今回は京都橘高校のユニークな伝統はどこから来ているのか、その歴史を見てみることでなにかヒントが得られないか調べてみました。

京都橘高校の紹介ページによると、京都橘高校は中森孟夫(なかもりたけお)により「京都女子手芸学校」として1902年に京都市内に設立されたものがもとになっているようです。その学校は、女性が経済的に自立(自営独立)することの重要性を認識し、「女子のための実業教育(技芸教育)の学校」として創立されたものだそうです。あの女子を中心とした高い演奏技術を見ると、もともと女子に技芸教育をするための学校であったからとすると納得できる気がしますが、中森孟夫自身はほかに簿記学校などを設立したり、のちにハワイにわたって日本人学校で教員をしたりしている人物で、特に女性自立のための実業教育に情熱を持っていたという人ではなさそうなので、なぜ1900年初めに京都に女子のための実業教育学校を作ったのか疑問もあります。

全く推測ではありますが、これはさかのぼること30年ほど前、京都に全国に先駆けて盛んに設立されたという女紅場の影響を受けたものではないかと思われます。何やら怪しい字面ですが、女紅場(にょこうば)とは明治初年に、女子に対して読み書き算盤や裁縫・手芸を授けた教育機関のことです。これは「京都女子手芸学校」のコンセプトとほぼ同一のもののようにも見えます。ほとんどの女紅場はおそらくは資金難などにより10年から20年の間にすたれていきますが、この伝統と需要を引き継いで「京都女子手芸学校」が設立されたものではないかと思われます。

さて、この「京都女子手芸学校」は実際はどのような学校であったのか気になって調べてみたところ、興味深い資料が見つかりました。リンク先は明治41年(1908年)の中等教育諸学校職員録ですが、これを見ると当時生徒数232人で結構な規模の学校であったことがわかります。何学年あったのかは不明ですが、7期生あたりに最大232人いたことになります。教えられている教科を見ると、刺繍や裁縫ばかりでなく、国語や英語、歴史や地理も教えられていることがわかります。創立者の中森自身も漢文、算術、代数、造花などを教えています。残念ながら音楽は教えられていないものの、手芸学校というよりは手芸も教える女子校という印象を受けます。

どんな教員が教えていたのかも気になったので調べてみたところちょっと驚きました。同時代の同姓同名の人が京都にいたのではないとすると、

  • 名誉校長に、京都帝国大学工学部初代教授の 大塚要(おおつかかなめ)
  • 校長兼理事に、自らも武道者で武道者の総本山ともいえる大日本武徳会を創立した鳥海弘毅(とりのうみひろき)
  • 理事に、「日本外史」で名高い頼山陽の孫で漢学者の頼龍三(らいりゅうぞう)。
  • 教授兼教務に、のちに文学博士にして京都帝国大学教授、第12代京都帝国大学総長となる歴史学者 羽田亨(はねだとおる)。当時京都帝国大学大学院生。
  • 教授兼庶務に、のちに京都市立第一商業校長をへて長崎大学の教授となる歴史学者川島元次郎(かわしまもとじろう)。当時京都帝国大学学生。

などそうそうたるメンバーが教員陣にいたようです。幹部に有名人をそろえ教員陣に有望かつ有能なイケメン(かもしれない)若手研究者をあつめた、あこがれのセレブな学校であったのかもしれません。

こののち、「京都女子手芸学校」は1931年に政府より職業学校の許可を受け、第二次大戦後の1947年に新制高等学校の「京都手芸女子高等学校」となるのですが、1957年校名を「京都橘女子高等学校」に変更します。

これは、上記の地図の通り、当時「京都手芸女子高等学校」が京都御苑の西、すなわち右側に位置したことから、御所の紫宸殿前に植えられた「左近の桜、右近の橘」にちなんで「橘」の文字をつけるのがふさわしいとしたからのようです。西側なら地図で見ると京都御所の左側じゃないかと思う人もいるかもしれませんが、昔の中国の「天子は南面す」にならって京都では天皇が南を向いて政治を執るのが伝統とされるので、西の方は天皇から見て右側になるということのようです。ちなみにこの「橘」の発案は当時の校長の恩師で「広辞苑」の編者であった新村出氏によるものだそうです。なお、この場所には現在京都ブライトンホテルがあり、ホテルの北側に京都女子手芸学校跡を示す碑があるそうです。

上記は昨年末に上賀茂神社で撮ったたものですが、橘は日本固有の柑橘樹で昔から繁栄や長寿の象徴として尊ばれ、邪気をはらうとされたことも校名にふさわしいと考えられたのでしょう。橘のイベントはコロナの影響で次々と中止や無観客となっていますが、せめて過去のYoutube動画でも見て邪気を払いましょう。

転・~祈り~

”謹んで新春のお慶びを申し上げます”

みなさん、こんにちは。

AKD44withT・・・やる気スイッチOFF状態(←三が日、ヒートテックのみでゴロゴロw)しかーしこれだけはと、なんとかパソコンに向かって試行錯誤しながらコメント頑張ってる?

ザウルス三姉妹養育資金調達係の福山テツです♨

 

詳しくは後々説明していきますが、手っ取り早く言うと”ココは行き場を無くしたぢぢブロコメント主さん達の集会所”みたいなところです。

ぢぢい殿が現在ぼったくり商事再建の為、カムチャッカ半島付近で蟹漁に勤しんでる間(←現地からの未確認情報では春ぐらいに帰ってくるそーですw)、

「行くとこないなー」「他のとこは・・・」とかいろいろな思いでいるぢぢブロコメント主さん達が「しゃーないな」「ここで暇つぶししとこかー」みたいな感じで集えればと思っています。

かくいう自分も超ウルトラスペシャル一級市民で、あんまり暇が無いので(←注:気まぐれと読みます)不定期ですがコメントして行こうかなと・・・。

 

去年の豊岡終わりにみんなで飲んだ時に、「このままバラバラになるのいやや」とみんなで相談してたらさっそく”イケさん”がつくってくれました。

ほんで共同管理でということで”イケさん・アナぴょん・ケセラさん・福山”で管理していきます(←でも管理者画面難しいんですよ(泣)慣れるまで勘弁してね)。

基本はぢぢブロと一緒・・・なんでもこいですが、へんなコメントはやめてね・やめてね・やめてね(←ってダチョウ俱楽部かw)。

ぢぢい殿よりキツイとことか緩いとこがあるかもです。なぜならぢぢい殿の前では「猫300匹ぐらいかぶってたから」かなw。

ということでみなさん、今年もよろしくお願いします。

追伸:今回避難所を作成?するにあたり”ぢぢい殿にご報告・お許しは頂いております”。 ぢぢい殿みてますか?蟹漁はどーですか?大漁のご報告おまちしておりますw(←ネット環境あるかな?ロシア領・・・しかもカムチャッカw)